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最終更新日 2019:09:01    湘南の天気予報   只今の時間    2019年09月24日(火)05時03分

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コッキングは他にハッカ貿易や消毒薬貿易での儲けは次々に有望な売地を買求めれて行った、七里ヶ浜の鈴木療養所の地、鵠沼の伏見稲荷社、次で現在の江の島植物園にも手は伸ばされた。
造営に際して巨額がつぎ込まれた。現在も「江の島サムエル・コッキング苑」で彼が情熱を注ぎ造りあげた植物園の遺構を見ることができる。コッキングはこのときから13年前に「入江を巡回しこの変った未知の国の景色のあやしい:美しさに、うっとりさせられてしまった。昨夜に代って隠かな残月のすがすがしい暁の江の島は、コッキングの脳裏に感銘深く焼付けさせるに充分なものがあった。」 緑の江の島の頂上の土地を買ったことには感慨深いものがあっただろう。
 コッキングはこの植物園を秘匿することなく、当時の新聞や雑誌等によれば、植物学者や観光客が同園を訪れていたようです。また明治40(1907)年の5月12日には「慈善園遊会」と称して、同園を会場に東京仏教孤児院事業補助のためのチャリティーパーティーを、遊行寺・龍口寺・円覚寺・建長寺など近隣有名寺院の協賛を得て開催しました。さらに翌年6月20日には鎌倉の保育園の園児を招き、孤児慰藉(いしゃ=慰め、いたわること)のための園遊会を催すなど、地域の福祉活動にも積極的に植物園を提供していました(横浜貿易新報記事)
若き日のサムエル・コッキング
●江の島にぞっこん惚れ込んだ外人

 
事業は益々進展盛況を極め休養の暇を求められぬ忙しさであった。時には禁足の外出範囲外の田舎に遠出を試みる規則違反をして、スリルを味う様な気分転換もやったりしていた彼であった。  その時分には未だ汽車の便は得られなかった。人力車程度のものが唯一の交通機関であった。
 明治14,5年に英国から輸入され当時居留地の外人間で前輪の馬鹿大きく、後輪の小さな二輪車を馳せることが流行し、コッキングも器用に乗りこなした。この様な乗物を利用して、遇々一昔前に夢の島.とあこがれた江の島に一日の清遊を試みた。この島が余りにも美しい楽土であり、その風光明媚にぞっこん惚れ込んで、そこに住居を設けようと適当な場所を探し求めた。島上台地断崖下に洋々たる相模湾の海を見下し、海上遥か彼方に.御神火けぶる大島もかすんで眺められる、展望良い所を探して購入することにした。手を打ったのは明治13年頃で、外人に日本の土地所有権が認められていない、当時のこと配偶者宮田りき女名義で西町200番地500坪余りの土地が買いとられ、藤沢台町の大工和助によって住宅が建設された。
 コッキングは他に貿易での儲けは次々に有望な売地を買求めれて行った、七里ヶ浜の鈴木療養所の地、鵠沼の伏見稲荷社、次で現在の江の島植物園にも手は伸ばされた。

●江の島植物園の造園


 植物園の地は古く金亀山与願寺と号し又は江島寺と称していた、時の上の坊(現在旅館金亀楼がその跡)所属であった、供御菜園と言われ供物と食膳に用いる野菜畑に当てられた処で、明治元年(1868年)3月13日付で政府は、神仏号を区別させる布告が出されたと共に、従来幕府将軍家からのお墨付き拝領物もあり、一般庶民の信仰があつかった弁才天も仏的存在とあれば、その混淆の跡を正さなければならなくて、江島神社と改まった様なものの一頃の盛況は全く影を潜めていた。経営の上にその財政が不如意となるばかり、依て維新と同時に過ての別当職は神道復帰と共に上の坊の僧は、壬生性を称し神主職となりその壬生家を継いだ昌延の時代に、供御菜園は宮田リキの名義を以て島上台地の3200余坪(約1万560u)はコッキングに明治15年頃買い取られてしまった。居宅とは道をはさんで造られた大庭園こそは島の最頂部で比較的平担であった。園芸に趣味の深い、コッキングをして大々的に鍬入れが行われた。整地に造園に植樹に建造物に多くの人力で、多大な資材が海抜60mの山上に急坂を背負い上げられての並々ならぬ大工事、園内の諸施設に就ては夫々後述するもこの豪盛な庭園開設のために投ぜられた出費は、現在と余りにも時代の距りが遠い時で金の値打も甚だしい開きのある明治10年代に200万円もの大金が費されての施工とあっては驚くの外あるまい。
 参考迄にその頃の労賃などを比較してみると外人の所で働いた大工手間が30銭、島の仕事師が材料運搬で坂道を上下する労力を多く要するとのことで一般より手間賃が良と言われ24銭そして旅館の宿泊料14銭であった。
 一大植物園を建設すべく新宿御苑で技術を学び得た、相田春五郎、林修已、有田五郎 等の技師が参画し、純英国式に幾分東洋風を加味された折衷式としての諸般の設計施工がなされた。江の島植物園施工に当つて、:その設計上の基礎を.なした英国の造園法だった。
明治18年(1885年)6月に完成された約200坪の温室は今や昔の姿を止めず唯煉瓦積みの基礎とボイラーの据っていた地下室とこれに通ずる地下道の跡が残されていたが、それさえも極く最近すっかり取り扱われていて昔を語るほど材料は何も無くなっていた。 
そして園内には立派な循環道路、植物の配植石組、築山、池作り、花壇 貯水槽 排水管敷設と工事は進められ温室や管理室の建設が大体コッキング植物園の一応形態をととのえられた時と見られ,それは明治18年(1885年)6月であった。「コッキン植物園」と島人は呼びならわしている。
 コッキング植物園として華やかな当時に在っては、温室内に咲き競った熱帯蘭や雑木珍草の美は如何ばかり人目を惹きっげたことであったろう。
バラをはじめチリ原産の南洋杉、マオラン、ユーカリのようなオーストラリアの植物、タイミンチク、スイレンやニューサイラン、コールジェリネ、ピラカンサス、さま ざまな果樹があったり、ショウブ園もそなえて花の向こうに富士が見えるようになっていた。
 コッキンは金の力にものをいわせて目一杯ゴージャスにしたのだろう。これだけでなくきっと彫刻もいくつか置いてあったに違いない。

温室の配置は図面に見る様に複雑な規構のもとに設計され立体的な構造を持った様式が採用されており、東側に大きな温室があって、それに垂直に4つの温泉がジョイントされている構造だ。当時流行していた『スリークォーター」(半鞍形四分の三式)とし之に直角に前方南に伸して四棟並立して造られた両屋根式(鞍形屋根)と連接されておった。左右非対称な片流れの屋根に特徴があった。この建て方は幾棟かの両屋式温室を並列し暖房用の鉄管布設に都合よく全棟の北端に一棟の室を設けて各室をそれに連結させて栽培と防寒の両得になる様な構築法が採用されてあった。この温室は、明治中期に造られたものとしては国内では最大の規模を有し、スチームによる暖房設備も当事としては水準の高いものであったと思われます。
煉瓦造の温室遺構としては現存する唯一のもので、近代の文化遺産として非常に貴重なものです。
●コッキング温室遺構
コッキング温室遺構 温室の用材は総て海外で加工され耐久性を充分考慮されてか麻栗(チーク)樹が用いられていた。現在の温室用材で、これ程までに木質を吟味し加工が入念にされておるのが見られない立派さだった。
 今参考迄に温室用材として各種木材の使用年限を比較検討してみれぱ松、杉は大体15年檜、アスナロが25年位であるのに麻栗(チーク)樹は45年も持つという耐久性のあることを物事に総て精密にして慎重なコッキングをして斯る用材を選ばせたのではなかろうか。
過て温室用材であったものの取り壊しの残り材が65年後の今日風雨にさらされてながら門扉に造り変えられ立派に勤めを果たしているのには驚かさざるを得ない。 
●温室と地下通路
温室とボイラー室、貯炭庫はT字形に設置された地下通路によって繋がっていて、行き来できるようになっています。地下通路は幅役1m、高さ1.9mで天井はアーチ型をしており、明かり取りのための天窓も造られています。左手に見える温室は他の3棟の温室と構造が異なっていて、中央部分に地山を残した造りになっています。  当時の温室のカタログから内のつくりと想像することができます。温室とボイラー室、燃料用の石炭を入れておく貯炭庫は丁字形に なっている地下通路でつながっていて行き来できるようになっていた。
 ボイラー室であたためられた温水と蒸気は鉄管や鉛管で各温室に送りこまれて常時24℃前後に保たれた。
地下道を直すぐ行く中程に壁面が矩形に大きくロを開けて奥行も扱い凹んだ個処(現在水族館に見る位大形の水槽様な)が見られた。過ては其処にガラス張りとなって地下道内から眺められたアクアリウム(水棲動植物放養観賞装置)が設置され、その上部開ロ部は地表に達し温室内で更らに上表部から観賞に応ぜられる様な構造がなされてあった。如何なる魚類や水生植物が飼養されたか今は知る術もないが地下道内に暖房パイプの敷設された跡が残っていたので或は熱帯魚の類が飼われていたのではなかったろうかと思える。
温室遺構の様子 
 地下通路入り口通路内部 現在の江の島サムエル・コッキング苑
>●貯水槽・陶管 水道がなかったからコッキングは、天水に頼ろうとして建造物の屋根と言う屋根全体に受けた雨水を一滴も逃さじと総て樋で集め導いてそれぞれの温室に集水用の水槽をつくって、降り落ちてくる雨を集めて愛知県常滑産の陶管で導いて地下貯水槽にたまるようにしてあった。 
この下には、幅4m、長さ12m、たかさ3m〜3.2mの巨大な貯水槽があります。 これは現在でもじゆうぶん使用に耐えられるものだという。 
天井は鉄骨で補強されたアーチ型で、アーチは9個連なっています。庭園や温室にとって水は欠くことのできない重要なものですが、江の島に水道が引かれたのは大正15年になってからのことでした。
そのため、コッキングは温室の屋根に降った雨水を全て利用できるように温室を設計しました。それぞれの温室には集水用の枡が設けられ、これに接続された陶管を通って雨水は貯水槽へと導かれるように造られています。
 陶管には大・中・小の3種類が使用されており、「肥田製」という刻印があるものが見られ、愛知県の常滑で焼かれたものです。
濾過貯水され必要に応じて汲上げて温室内潅水用に給水されていた。その細心緻密な工夫がなされていた構造はコッキングの性格を知る一面ともなろう。植物園の反対側にあったコッキングの居住庭の中にも地下埋設で大水槽が作られ飲料水を補っていたが、今は使用されず地下にそのまま,眠って了っている。 
温室の建造構築は既述した様に立体的になされておった関係から室から室えの連絡通路ポイラー室えの通路が地下道に.依ってなされていた。  貯水槽の北側、防風壁との間からアーチ型をした煉瓦構造物が出てきましたが、これらがどこにどのように使われていたものかは判っていません。

 
手前が貯水槽の上部

貯水槽の内部
   
 貯水槽に接続された陶管   現在の江の島サムエル・コッキング苑
 ●ボイラー室・貯炭庫  

貯炭庫上部

貯炭庫内部と燃料投入口
ボイラー室は間口5.9m奥行3.8m深さ3.5mに及ぶ大形の地下堀下げの煉瓦積モルタル塗りの室でこのポイラ一室を覆って地上部は煉瓦概の物置が造られている。地下のボイラー室からは壁面に沿って煉瓦積で煙道と排気口が設けられている。
 ポイラー室に隣接する貯炭庫は2.4mx2.3mの広さで地下埋設の構築で石炭投入口のみ地表面にぼっかり孔を開けており平盤状の石が蓋石されていた。 船で運ばれた石炭は裏山道から人夫の肩に背負われて、山頂の植物園に持込まれ貯炭車に投入された苦心を思えばコッキング植物園の温室なまやさしい経費ではまかなえないものであった。温室栽培において重要視される温度、光線、温度、その温度に就て栽培作業として要求されるものに汲み水があるが、その給水の為め江の島の頂上まで水を運ぶことは容易ならね難事であった。大正十五年(1926年)12月14日になって初めて江の島水道が敷設された。
 東側に接している貯炭庫とは地下でアーチ型の入り口によって繋がっており、ボイラー室と温室は地下通路で連絡しています。ボイラー室で暖められた温水や蒸気は鉄管や鉛管を通じて書く温室や池を巡っていました。その鉄管や鉛管がところどころ地面に顔を出しています。
貯炭庫には二つのアーチ型天井に、燃料を投入するための穴が設けられています。
幅1m、高さ1・9mのアーチ型天井に明かりとりの天窓のある地下通路の途中二か所に熱帯魚用のアクアリュウム(水槽)が設けられそこでも熱帯の動植物が飼育されてガラス越しに鑑賞を楽しむことができるようになっていた。
 ボイラー室であたためられた温水と蒸気は鉄管や鉛管で各温室に送りこまれて常時24℃前後に保たれ、濠洒な形にデザインされた池の地下にも暖房用のパイ プを通してオオオニバスのような熱帯の水棲植物を育てていた。 
明治30年の『植物学雑誌』の記述から、コッキングの温室には蒸気の暖房施設があって、温度は24度内外に暖められており、ランやサボテンなどの植物を栽培していたことがわかりました。
 
 炭庫のアーチ型天井とボイラー室の出入り口 現在の江の島サムエル・コッキング苑
イギリス本国か,ら持込まれか温室用材で建て上げるエ事は当時横浜の平沼4の80にあった太田鉄工所が請負わされた。同鉄工所の創立も古く明治14年(1 8 8 1年)で船舶諸機械の製造修理と植物用温室の加熱装置、土木建築工事を業としており古い園芸家ならよく知つている温室建築界の元老の地位を占めていた。
 江の島に於ける コッキング植物園のものは我国園芸発迫史上に於ても温室栽培の先駆的立場に置か瓦る存在をなすものであって尚その規模の上から見てもそれ迄に無い広大な面積を以て経営された丈に我国に海外熱帯金の植物培養に寄与されたものが大きかったことがうなずけよう。

 明治10年(1877年)以前から輸出貿易品として、植物関係のものを取扱って来た。コッキングその人自身植物に相当の教養学識が高かったことが筆者の手許にある資料に依っても窺える。それは京大農学部所蔵本の中にあった”THE GARDEN””3 5巻7号1889年″(明治22年)に刊行されたものの中に彼の執筆による記事が掲奪されており、それを見ても彼が相当植物の知識の持主であったことが知られ、尚その記載文の末項に如才無い言葉が盛られてあった。
 『もしもあなたが日本の植物に枇て入手したいと希望するならば幾許かの日時を与えてくれるのだった;らその希望を叶えてあげよう』と中々に抜目の無い商魂たくましいものが随処に参み出ている。

 こうして明治18年(1885)6月に完成したのが「コッキング植物園」であり地元では「コキング植物園」と呼ばれることになった。
 いまほとんど完全な形でみごとなレンガの遺構が発掘整備されて「江の島サムエル・コッキング苑」として、一般公開されている。日本の近代化遺産の重要な存在である。コッキングはさらにもう一棟の温室を増築しようと考えていたといわれるが、この植物園は趣味江の島サムエル・コッキング苑に残る洋風なレンガ造りの池。陶管から温水を導いていたというの領域をはるかに越えている。 たしかに半分は趣味であったろうが、半分はビジネスであったと 考えるべきではないか。
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