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最終更新日 2019:06:01    湘南の天気予報   只今の時間    2019年06月26日(水)12時50分

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日本開国の頭初海外文化の未開拓の時代に.、いち早くも躍り込んで来た。野望にもえた一青年が目指す貿易の仕事は当って一躍豪商の地位をかち得たコッキングも寄る年波に在りし往年の精気も失せて遂に横浜市平沼の自邸で73才のその生涯の幕を異郷日本で閉じた。
彼は実に奇蹟に満たされた運命を辿った、一生を担わされてこの世に生れ出て来た様な人物であった。
 

●豪商コッキングの栄枯盛衰

明治19年(1886年)45歳になったコッキングは横浜市平沼新田の久成寺の東南の道を隔てた広大な埋立て地の一角を地主であった平沼家から買い求めた。 新田の大規模なものは海岸干拓によるものでその他は沼沢の低温帯の埋立によったものであった。そしてその埋立ての総てが町人の財力に依って行なれた。「新田」などと開墾地のような地名だが人口の増加にともなって横浜の市域を拡張するために干拓したばかりだった。拡張の地域を提供す名目的であって新田の地名には開拓埋立施工者の姓が付けられた町名が多かった。コッキングはここにドイツ人の技師を招いて毎月三万余貫(約112・5t)の石鹸を製造した (「花王石鹸五十年史」によれば石鹸工場の創業は明治14、5年ごろであったともいう。詳細不明)。 翌明治20年代は文明開化の文物取入れに汲々としていたことがまざまざと見られる。コッキングとて人後に落ちず素早く文明の利器である電燈を紹介したのが、明治20年で自らの商館55番館内に発電機を設置してまばゆい電灯の輝を多くの知名人を呼んで見せており横浜におる役人のおえら処もその装置を見学させられ何等かの示教を得た。55番館内の発電機は火力発電機で大きさは1.2mx2.7m位のものが六畳敷位の室に設置され右炭を焚き蒸気の力を原動力とし調帯1 2 cm 巾のものが翻っていた。而して目己の経営する商館を中心とするクラブやホテルまで本町通りを供給区域として当時としては随分進歩的;な地下ケーブル方式を以て通電する条件で電気供給の許可をとって営業を開始し儲けた(明治29年横浜電灯会社に売却)。
●コッキングと3人の女性

 時は明治20年(1887年)国鉄東海道線に藤沢駅がその年の7月11日に開業された。従来不便をしのんで江の島通いをしていたコッキングも汽車の便を借りて江の島へ来ることしばしば、妻りき女も連れ立って来遊、偶々藤沢駅ホームで未だ列車の止り終らぬうちに転落し、前額部に大怪我をし横浜から医者を迎えて手当を加え、江の島で暫く養生したがその時受けた負傷の傷跡は彼女の容貌を一変させる迄ひどいものであった。それ以来彼女の心の底に暗影の去来する悩みの日が続けられる様になり始めた。
 醜くなった自分は何時かは捨て去られはしまいかと不安がひしひしと迫つて来た、彼女は何としてもコッキングから離れたくない。どうしたら末永く固く結び付いておられるだろうかと日夜脳み続けた末の思案の一策は出戻りの妹ひろ女に事情を打明けて、妹をしてコッキングのそぱ女として関係付けさせた。そして本妻りき女は専ら横浜の居留地55番館にひろ女は江の島の別邸にあった。
 コッキングの江の島通いの日も頻繁になって来た。その頃は藤沢駅から江の島迄には電車も通っていなかった。明治35年(1902年)に江の島電気鉄道が片瀬まで開通したので益々便利となった。
 コッキングにかしずいていたりき女、ひろ女二女ともコッキングとの間に子供が居なかった。そこで妹ひろ女の連子を養子としていた程だった。 コッキングには全く子供が無いものと思っていた処、居留地55番館に勤めていた女中頭の口からもらされた話によれば、ひろ女の連子の子守りに雇入れた娘がコッキングの大のお気に入りとなった。山手の外人学校に語学の勉強に通学させ、会話がどうにか出来る位になった娘、コッキングは益々司愛がり、果てはその娘とねんごろになった。外人め種子を宿す身となったが、その後、その子守娘が何処に姿を消したか、又混血児を無事産み落したか、一向に分らない。もし その子供が生存していたならば、今や老境に入る年配となっていただろうが何処からも名乗って出て来なかった。これが唯一つのコッキングの血脈を継ぐ一粒種子だった。 こうした関係の間に立って心くだいたりき女の隠忍自重はどの位苦しかったことであったろう。然しコッキングをして深い淵に溺れさせず、事業の上の失敗.もなく過させた内助の効は大いに褒めてしかるべきものだと思う。

 
● 豪商コッキングの末路

 我が国が通商貿易を始りて年残い時代から羽振のいい貿易商人として桧舞台に立ったサムエル・コッキングは53歳になった明治27年(1894)8月1日に日清戦争が勃発した。 コッキンは翌年までつづいたこの降って湧いた商機を利用して大いに儲けた。 植物園のボイラー室の上の小屋か自宅の押入れの棚からあがる屋根裏部屋で商談を行って、ずいぷんと危ない橋を渡る裏稼業に精を出した様子である。どさくさまぎれの闇仕事、まともではない商売の方が利益が大きいに決まっている。 想像をたくましくすればコッキングはイギリスから武器弾薬を仕入て売りさばいたのではないか。これが一番儲かることは古今東西を問わないからで、こうして得た莫大な利益をコッキングはイギリスの銀行にあずけた。貧しい国日本の銀行は危なっかしく見えたのにちがいない。 現金を持っているよりはと鎌倉・七里ケ浜、腰越や藤沢・鵠沼などに土地も買い求めた。やがて値上がりするだろうと考えたのだろう。古美術品も相当量収集したという。
 それ.から10年、明治37年(1904年)2月10日、日本はロシアに宣戦布告した。日露戦争である。 日本は戦費がなくて軍事費をまかなうために日銀副総裁・高橋是清をアメリカ、イギリスヘ派遣して外債を募った。当時の金で戦費の半分にあたる八億円を借金してロシアと戦ったのである。 意外なことに日本は大勝して列強を眼目させることになったが、彼にしては好期逸ず可からず躍動大いに努めなければならぬ機会到来、然るに幸運はいつも彼の上のみにころげ込まなかった。
 彼が稼ぎ上げた莫大な金はイギリス本国の銀行に預金されていたのが不運にも銀行の倒産閉鎖の危に逢い預金の引出し不能となった。我国に於ける彼の事業の上に多大な影響を及ぼし仕事の整理縮小を余儀なくされ、コッキングは平沼の倉庫にぎっしり詰まっていた古美術品を売りつくし、鎌倉や藤沢の土地も手放して静かな余生を生きることになったのだ。 平沼の本宅と江の島の別荘を往復する生活を送っていたコッキングは人生の日暮れ時を迎えても日本を去ろうとしなかった。 遂に華やかなりし居留地の商館も引払わなけれぱならず一頃は飛ぶ鳥も落さん豪商も聊か消沈の態で平沼の地に引こもって鳴をひそめて了った。
 一部を畑地に耕され目家用菜園にされていた。道路沿いに家作があり貸家としてあったものを将来は邸宅に建替えず計画が予定されていた、そこの借家人を立ち退いてもらって居留地を引払った彼は一先づ移り住むこととした。遂にそこには新築の家屋は出来得ずに終って了った。

●エルサム・コッキング大往生


 光陰は矢の如く過ぎ時代は大正へと改元して三年を迎えた。大正3年(1914年)2月26日、以前から心臓を悪くして寝たり、起きたりしていた彼は日頃親しく交際していた道路一つ隔てゝ,隣接する田中潜水服製作所の嬢さんわき女を窓越しに至急来訪を乞うた。
 取るものも取敢えず赴いたわき女の目に写ったのはロもきけぬ迄になってベツドに横たわる病状急変の彼を見たのであった。驚いた彼女が家人にことの急を告げたのに本妻りき女は、菜園に.出ており、急遽馳せ戻って二人して介抱に努めたが遂に一言の最後の言葉さえもなく、わきの手を固く握ったまま不帰の客となってしまった。側妻のひろ女はコッキングの食事の仕度で元町辺に買物に出掛けていて留守の間の出来事であった。晩年コッキングは余りひろ女の性格を快しとせず遠ざけて来ていた、彼が臨終にも真に.心置きなく親しめた人の介抱で永遠の眠りに就き得たことだけでも幸福であったかも知れない。
 日本開国の頭初海外文化の未開拓の時代に逸早ぐ躍り込んで来た野望にもえた―青年が目指す貿易の仕事は当って一躍豪商の地位をかち得たコッキングも寄る年波に在りし往年の精気も失せて遂に横浜市平沼の自邸で73才のその生涯り幕を異郷日本で閉じたのである。
 彼は実に奇蹟に満たされた運命を辿った一生を担わされて之の世に生れ出て来た様な人物であった。
 彼の没後家族の遺産争いから江の島の植物園がクローズアップされたのも、今や昔と過ぎた思い出話となってしまったが、ひろ女が持ち出した目欲しい骨薫め数々が江の島植物園内の大池にひそかに沈まされた時もあった。
 市営江の島植物園として再開準備にその開発に参与していた筆者はこの池の整備に人夫を使って永年埋れた土砂の汲出しをさせていた折何か一品でも沈め残されたものでも出はせぬかと注視していたが何物も出なかった。今や多,くの観光客や呑吐しているあの植物園にそうした秘め事があったことは誰も余り知っておらぬ。大池はありし昔の出来事を何くわぬ顔して満々と水を湛えて静かに緑を写して来遊の客を迎えている。
 長い鎖国の夢を破って開港通商貿易へと急転した横浜に程遠からぬ湘南の景勝地江の島にもこの様な思い出話が潜んでようとは余り世人は知らない様だ。
 葬儀は横浜・元町の増徳院で行われることになって遺体を載せた霊柩車は馬車に乗った六人の憎が先導した。 葬儀は日本人関係者約二百名、外国人参列者はJ・カースト大尉、ジョン・ギャツピー氏、ペニー氏、ファープ・プラント氏、アレックス・クラーク氏(全員詳細不明)ら二十名であった。 増徳院墓地内の宮田家の墓所に「賢明院英誉秀徳居士」となったサムエルコッキングの永き眠りの床に平和に栄えゆく片瀬波の潮鳴りを送り届けた`。
「只今(ただいま)江の島に住んで居ります。私し植物大層好きです、日本の人、誰でも植物好きです、恐らく世界中で一番植物の好きな国民は日本人でありませう」
 これはサムエル・コッキングが明治42(1909)年刊の横浜貿易新報社編「横浜開港側面史」に寄せて語ったものです。この文中に「私し商売嫌ひで十五年前に止めました」とあり、明治30年代初頭から植物園の管理などを中心に悠々とした毎日を送っていたようです。
 日本の人や風土をこよなく愛したコッキングは、日本人女性と結婚し、文字通り日本の地に骨をうずめますが、明治初頭の貿易で築いた財で、一大私設植物園を江の島頂上に設けました。現在でも「江の島サムエル・コッキング苑」内の温室遺構に当時をしのぶことができます。
  江の島サムエル・コッキング苑を訪れた際には、ぜひ緑あふれる温室の当時のにぎわいを想像してみてください。
現在の江の島サムエル・コッキング苑
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 「江の島植物園 サムエル・コッキング」              内田輝彦 著より

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