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最終更新日 2019:09:01    湘南の天気予報   只今の時間    2019年09月24日(火)04時47分

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東海道53次と湘南湘南物語:参考文献
曽 我 物 語
曽 我 兄 弟 の 仇 討 物 語
曽我物語の発端 > 曽我兄弟の仇討ち > 大磯の虎・曽我物語の地理
●【大磯の虎】
 兄十郎は大磯に虎という愛人がいた。兄弟が仇討ちを果たした5月28日の夜は雷雨でした。この雨は十郎との別れを嘆く虎の涙だということで、虎が雨といわれています。歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」の大磯の景色には「虎が雨」というタイトルがついており、江戸時代にも曽我兄弟の仇討ちやそれにまつわるエピソードがポピュラーな物語であったことがうかがわれます。
歌川広重の大磯「虎が雨」
 十郎が本望を遂げた際に流した虎の涙が雨になった「虎が雨」。
曽我兄弟の命日陰暦五月二十八日に降る雨を虎が雨といい、歌川広重が「東海道五十三次」で大磯の情景を描き、小林一茶は次の句を詠んでいます。
「とらが雨など軽んじてぬれにけり」
高麗山は、大磯の虎が晩年を隠棲した場所として、曽我物語の終わりに現れる。
曽我が忠臣蔵以上に超メジャーであったころ、この山は庶民に親しいものであっただろうし、おそらく瞽女達にとってはメッカのようなところであったに違いない。
 山腹にその彼女のお墓があるという。彼女は京都の大納言が旅先で大磯の長者の娘に設けた貴種とされている。それなのに、長者はこの娘を白拍子にしている。
 中世、長者というのは要するに女郎屋の経営者であり、女郎を娘と呼んでいたのだろうと思われる。
 恋する曽我十郎(兄)が久しぶりに来てくれた日、皮肉にも和田義盛の宴席に呼ばれ、断っていると母までが説得に来る場面がある。
 虎御前は再三断るが、十郎が来ていることが分かってしまい、白拍子の悲しさで、とうとう宴席に出なければ、済まなくなる。和田義盛が迎えに派遣するのが三男の朝比奈義秀だ。
 十郎は敵討ちを優先し、じっとこらえて丁重に迎えに来た朝比奈の顔を立て虎御前と共に和田の宴席へと向かう。
 ここで兄の危機を知った弟が登場する。
 朝比奈はお芝居でお馴染みの怪力スターだが、立ちはだかる五郎(弟)の怪力の前には、彼でさえもかなわない。
 さて、十郎と共に招かれた宴席で虎御前が最初に勧める杯は、この場では主人和田義盛に差し出すのが作法であった。想う人へとは言うものの、それはあくまで言葉の上でのことだからだ。
 満座の者が注視する中で、それならばと大磯の虎は、想う人十郎殿にと杯を勧める。和田が怒れば、即刻斬り捨てられる行動だ。
 しかし、あっぱれと言うべきか、和田義盛は澁々ながら、わしがもう20年若かったら、かような目には合わないものをと言うに留める。このシーンの大磯の虎の振舞いが、まことに素晴らしい。
 敵討ちをするために独身を通している曽我十郎は、良くもてる、縁談話が何度かあるし、若い女性を連れ出す仕掛けを断って、助かったりする。歌舞伎では和事の若い美男役者が努める役柄だ。
 しばしば大磯の虎を訪ね、実家へも連れていくが、仇討ち出発の前日の朝に虎御前を馬に乗せて大磯に帰している。
 明日死ぬ覚悟を決めた男が、小袖と鞍を形見にと告げる別れのシーンは、やはりジーンと来る。
曽我兄弟は、終始一貫して女性には優しい。 手越の少将、黄瀬川の鶴亀が,敵の工藤、王藤内と寝ていたのを、仇討ち前に怪我をせぬよう救っているのもそのひとつだ。
 その二人が騷いだ結果、彼らは斬り合へと突入していくことになるのだが、口封じのために女を殺すようなことをしないのが武士なのだ。
 虎御前(とらごぜん、安元元年(1175年) - ?)は、富士の巻狩りの際に起こった曽我兄弟の仇討ちで有名な『曽我物語』のヒロインで曽我兄弟の兄・十郎祐成の恋人で、この物語を色づけ深みを持たせる役割をしている。お虎さん、虎女(とらじょ)とも呼ばれる。
 また俳句などでは虎御前と書いて「とらごぜ」と読ませることもある。十郎祐成と弟の五郎時致は早くから父の仇を討とうと考えていたので妻を持つことを考えなかったが、五郎の勧めもあり妻を持つことになった十郎は自分が死んだ後のことを考え遊女を選んだといわれる。
 虎は大磯の遊女であった、虎と十郎は遭うべくして出会い直ぐに恋に落ちる。虎17歳、十郎20歳の時であった。そして虎が19歳の年、建久4年(1193年)5月28日に頼朝が催した富士の裾野での狩りに夜陰に乗じて忍び込んだ兄弟は、父の仇の工藤祐経を討ち取る。しかし、十郎はその場で仁田 忠常に切り殺され、五郎も生け捕りになった後頼朝直々に取り調べられて処刑される。
 俳句の季語に「虎が雨(とらがあめ)」という言葉があるが、旧暦の5月28日に降る雨に後世の人びとが虎女の悲しみを重ねたものである。兄弟が死んだ後、残された虎女は曽我の母のもとを訪ね兄弟を弔い出家する。
 虎女は『吾妻鏡』にも出てくることから実在した女性とされる。虎女の出自については諸説あるが、重須本「曽我物語」では、虎女の母は平塚の遊女夜叉王で父は都を逃れて相模国海老名郷にいた宮内判官家永だとされている。虎女は平塚で生まれ大磯の長者のもとで遊女になった。
 虎の母夜叉王がいた平塚の遊女宿は現在の平塚市の黒部が丘あたりにあったと言われている、大磯の長者は高麗山の近く(現在の平塚市山下)であるので余り離れた場所ではない、花水川が間にあるが歩いても一時間は掛からない距離関係である。
山下長者屋敷跡 虎御前の石碑  虎御前を奉った祠
虎御前の化粧井戸  大磯宿遊女の墓
 夫、十郎(当時は戸籍などないので、明確な婚姻の定義は無いが虎は十郎の妻としてその生涯を送った)の死後、兄弟の母を曽我の里に訪ねたあと箱根に登り箱根権現社の別当の手により出家する。
 その後亡夫の供養のため信州の善光寺に参る、大磯にもどった後 高麗寺山の北側の山下に庵を結び菩薩地蔵を安置し夫の供養に明け暮れる日々を過ごした事が山下(現、平塚市)に現存する高麗寺の末寺であった荘巌寺に伝わる「荘巌寺虎御前縁起」に記されている。
 虎女は兄弟の供養を片時も忘れることなく「曽我物語」の生成に深く関わりながらその小庵で63年と言われるその生涯を閉じる。(虎女の生涯は嘉禄3年(1227年)2月13日没、享年53と言われてきたが最近の研究でその没年は嘉禎4年(1238年)とされる)
曽我十郎の硯水
 高麗山ハイキングから登る湘南平には十郎祐成が虎に手紙を書くために使用した硯水があります。 
五郎時致が、この山で駆け上り馬のために水を求めて、強く足を踏みつけると、淡々と清水が湧き出た、処をいう、後々兄の十郎祐成がこの水で文を書いたので、硯水の遺跡とも伝わる、ここの水で手習いをすると上達が早いと言われている。
大磯、延台寺
日本三大仇討ち物語の一つ『曽我物語』のヒーロー、曽我兄弟の兄・十郎祐成と結ばれた、一代の舞の名手、虎女(虎御前)が開いたお寺です。虎女供養等、虎池弁財天の碑、虎御前祈願の竜神、子授け祈願の石仏、大磯宿遊女の墓等あり、古い歴史を感じさせます。又、春には境内の桜の大樹が花を競い、参詣客の目を楽しませてくれます。
5月第四日曜日(曽我十郎が仇討ちを果たしたのが旧暦の5月28日であることに因み、毎年開催日が決定されます。)虎御石がご開帳されます。この石に触れると安産・厄除け、大願成就にご利益があるとされています。
当日は甘酒サービス、ちびっこ剣道大会、詩吟等の行事が奉納され、参拝客でいっぱいになります
法虎庵
虎ごいしまつりに、法虎庵の御開帳が行われ、室内が観覧できる。
曽我兄弟坐像 左側=虎御前の位牌  右側=曽我兄弟の位牌
虎御石
 山下長者はなかなか後継ぎの子供に恵まれませんでした。あるとき妻が、虎池弁財天に祈願を思いたち日夜お願いしたところ、夢枕に弁財天が現れました。翌朝、美しい石が置かれており、その石を日夜礼拝していたところ、めでたく女児を授かりました。1175年のことです。虎池弁財天より「虎」の字をいただいて「虎」と名づけました。
 虎女が大きくなるにつれて石もまた大きくなっていく。人々は生石といって不思議がり、山下長者はありがたい霊験にお堂を建てて、弁財天とともに虎女の守り本尊としました。この石こそ 「虎御石」です。 曽我十郎の仇討ちの相手、工藤祐経は仇討ちの気配に気付き、十郎が山下長者の屋敷にちょくちょく来ることを知り、刺客を差し向けました。十郎めがけて矢を射かけたが、矢は見事にはね返され、続いて太刀で切りつけたが歯がたちませんでした。よくみればそれは大きな石であり、刺客は驚いて逃げ帰りました。
 その大きな石こそ「虎御石」であり、矢の当ったあたりに矢きずのくぼみができ、長い刀きずもついていました。それ以降、「虎御石」を「十郎の身代わり石」とも呼ぶようになりました。
周囲 86p、重さ130s。
五月末の「虎御石まつり」の際にご開帳され、安産、大願成就、厄除けにご利益があるとされています。
 御石  この石に触れると安産・厄除け、大願成就にご利益があるとされています。
●【曽我物語の地理】

曽我物語に出てくる地名の位置関係は、鎌倉時代、幕府が開かれた鎌倉とその浜辺由比ガ浜が一番東の端にある。和田義盛たちは三浦半島の豪族だ。
 ここからずっと西へと進み,藤沢を過ぎ,相模川を渡って約20Kmで高麗山,大磯に行き着ける.ここに化粧坂(けわいさか)があり、鎌倉時代、遊女屋が並ぶ一大歓楽街があったのだ。
 大磯の虎はここの売れっ子白拍子(遊女)で,十郎が17歳で通い出した頃,彼女は17歳であったそうだ。
当時の武士は馬での移動が基本だから、鎌倉からおよそ2時間以内で行ける。
 曽我は大磯からさらに西へ進んだやや内陸に入った地域で、約15Kmの距離に位置している。十郎が通うには最適の位置に大磯があることが分かる。
そして五郎がいた箱根権現までは旧道が通っていて、曽我から西に約15Kmほどで行ける。
兄弟の故郷は曽我から南西、伊豆半島の東側で伊東と、その先の河津だ。彼らが仇討ちを成就する富士山麓は、さらに西に開けた沼津近辺という配置だ。
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